リスクを負いながらも、二人の大統領の決断と実行力により、アメリカはテキサス併合という外交的勝利を収めます。テキサス共和国がもう少し長く存続していれば、イギリスがアメリカに「揺さぶり」をかける余地があったでしょう。
地政学的には、併合に際しては「国境確定」が必ず問題となりますが、テキサス併合の場合も例外ではありませんでした。
そう考えると、イギリスとメキシコの外交的敗北と表現すべきかもしれません。
1845年[US069]アメリカがテキサスを併合した。併合にあたり、アメリカはテキサス州とメキシコとの国境をリオ・グランデ川と主張した。メキシコとの対立は決定的になった。
最初にクールザックリまとめてみました。
テキサス併合(1845年[US069]12月29日)は以下のような複雑な手続により行われました。外交と内政上の2つの懸念があったことが背景にあります。
第一に、テキサスを併合すればメキシコとの対立は決定的となり、近い将来における開戦は不可避であるとの外交上の懸念がありました。
第二に、奴隷制を保持していたテキサスがアメリカに加盟すると、上院の新しい2議席は奴隷州側に付くことを意味して北部の諸州が容認し得ないという内政上の南北対立激化を招く懸念がありました。
- 1841年[US065]4月4日 William Henry Harrison第9代大統領が急性肺炎で死去。John Tyler副大統領が昇格、第10代大統領に就任
- 1844年[US067]4月 Tyler第10代大統領はテキサス併合の条約を締結
- 1844年[US067]6月8日 アメリカ合衆国上院は、35対16という大差で、テキサス併合条約を否決。批准ならず
- 1844年[US068]11月1日~12月4日 アメリカ大統領選挙。James Knox Polkが当選
- 1845年[US069]2月28日 TylerとPolkはテキサス併合に賛成であり、条約(上院での批准が困難と見込まれた)ではなく、上下両院合同決議による併合法案としてテキサス併合を議会に提出した。1845年[US069]2月28日、上院で27対25の僅差、下院では132対76で、選択権を大統領に与えるという決議がなされた
- 1845年[US069]3月4日 大統領任期最終日に、Tyler第9代大統領が当該決議を実行する選択を行い署名。同日、Polkが大統領就任
- 1845年[US069]7月4日 テキサス共和国は、55対1の圧倒的な票差で、テキサス併合法案を批准
- 1845年[US069]12月29日 Polk第10代大統領が、テキサス共和国をテキサス州としてアメリカに併合する法案に署名
Tyler第9代大統領がテキサス併合推進に傾いた直接の理由は、イギリスを介したテキサス共和国のメキシコへの接近の動きが1843年に見られたからだそうです。現在から見ればテキサスがアメリカなのは当たり前ではありますが、テキサス共和国がイギリスやメキシコの支援を受けて、いましばらく独立した国家として存在した可能性もあったわけです。
フロリダに次いで、テキサスでも、アメリカが外交的勝利を積み重ねたと言うべきだと思います。テキサス併合の手順は強引でしたが、一人機関としての大統領職を置いているアメリカの政治的な強みが発揮された一例と言えるのではないか、とわたしは思います。
ともかく、テキサス併合によってメキシコとの対立は決定的となりました。また、そもそも、国境について、メキシコはアメリカと異なる主張をしていました。翌1846年[US070]4月25日には、米墨戦争が勃発(~1848年[US072]2月2日)することとなります。
参考(テキサス併合後のアメリカ領土の地図):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E9%A0%98%E5%9C%9F%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7#/media/File:United_States_1845-12-1846-06.png
文責:四々縦七