1844.07.03 望厦条約

アメリカは労せずして清と不平等条約を締結することに成功します。イギリスのお膳立てに乗じた「ごっつあんゴール」ですね。

オレゴン地方こそイギリスとの共同統治で一旦問題を棚上げしているものの、フロリダをスペインから購入し、テキサス共和国のメキシコからの独立が達成されたことで、アメリカ本土の南北国境線が確定してきたタイミングでした。

1844年[US068]7月3日、イギリスについで、アメリカも清と望厦条約を締結。清は広州、福州、廈門、寧波、上海の5港を開港させられた上、関税自主権を喪失、治外法権を認め、最恵国待遇を与えた。

最初にクールザックリまとめてみました。

アメリカ第10代大統領John Tyler(1841年[US065]4月4日〜1845年[US069]3月4日)が清と締結した望厦条約(Treaty of Wanghia、1844年[US068]7月3日)の内容はイギリスがアヘン戦争(First Opium War、1839年[US063]9月4日〜1842年[US066]8月29日)に勝って清と締結した虎門寨追加条約(Treaty of Nanking、1842年[US066]8月29日)とほぼ同じだった様です。

イギリスが結んだ虎門寨追加条約の内容は以下の通りです。

  • 清朝は、広州、福州、廈門、寧波、上海の五港を開港し、イギリス商船による通商を認める。
  • イギリスの商人は内地旅行を禁止する。
  • イギリス人は五港の定められた地域の中で、家屋または土地を租借し居住することが出来る。
  • 双方の関税は、以後両国の共同の協定によって決める(関税自主権の喪失)。
  • イギリス人が犯罪を犯した場合、イギリスの官憲が逮捕、清朝と協議の上にイギリス官憲が共同調査する。すなわち領事裁判権を認める。
  • もし清朝が他国との条約で有利な条件を他国に与えた場合、イギリスにも同一条件を認める。すなわち清朝は片務的最恵国待遇を負う。

この望厦条約(1844年[US068]7月3日)がビッドル来航時、ペリー来航時のアメリカの日本に対する開国要求のひな形となります。ビッドルはこの望厦条約(1844年[US068]7月3日)の批准書の交換に携わっており、その翌年に浦賀に来航したことになります。


アメリカ第10代大統領John Tyler(1841年[US065]4月4日〜1845年[US069]3月4日)は前任者の死によって就任した最初の大統領です。清とは望厦条約(1844年[US068]7月3日)を締結し、日本にはビッドルを派遣しました。テキサス併合(1845年[US069]12月29日)に功績。

文責:四々縦七

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