1858年[US082]7月29日、アメリカのハリスと江戸幕府は日米修好通商条約を締結し、下田、箱館に加えて、神奈川、長崎、新潟、兵庫を開港すること、江戸および大阪を開市すること、治外法権を認めること、関税自主権を放棄することとなった。
最初にクールザックリまとめてみました。
日米和親条約に基づいて1856年[US080]に総領事として下田に着任していたハリスは、アロー戦争(Arrow War (Second Opium War)、1856年[US080]6月28日〜1860年[US084]10月/11月)の勃発を背景として、江戸幕府に対して強行に通商条約の締結を要求しました。
ハリスと幕府は日米修好通商条約(Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan、1858年[US082]7月29日)に調印しました。日本は関税自主権を失い、外国人に治外法権を認めたため、以後長期にわたって苦しむことになりました。
ビッドル来航(1846年[US070]7月19日)から12年、アメリカは遂に日本に治外法権を認めさせ、関税自主権を放棄させることに成功したわけです。
改めて、イギリスがアヘン戦争(First Opium War、1839年[US063]9月4日〜1842年[US066]8月29日)に勝って清と結んだ不平等条約(虎門寨追加条約(Treaty of Nanking、1842年[US066]8月29日))を確認しましょう。
虎門寨追加条約の概要:
清は広州、福州、廈門、寧波、上海の5港を開港させられた上、関税自主権を喪失、治外法権を認め、最恵国待遇を与えた。
そうですね。日米和親条約(Convention of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan、通称Treaty of Kanagawa、1854年[US078]3月30日)と日米修好通商条約(Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan、1858年[US082]7月29日)で、きっちり同じ内容の不平等条約を締結することに成功しています。
以前書いたことのほぼ繰り返しになってしまいますが、アメリカは戦争に勝ったわけでもないというか戦争すらしていないのに、イギリスが清に戦争で勝ったことと、イギリス・フランス連合軍が再度清に戦争で勝ったという、周辺状況を巧みに利用して、清と同じ内容の不平等条約を日本と締結することに成功したのです。
日米修好通商条約では、開港・開市を定めた3条、治外法権を定めた6条が重要です。関税率は本文ではなく附則である貿易章程で決められています。当時日本側に関税自主権という概念がなかったため、関税率の設定だけが問題となったそうです。
文責:四々縦七