1846.07.19 アメリカが日本に開国要求。ビッドル来航

1846年[US070]7月19日、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが、望厦条約と同じ内容の条約締結をニッポンに求めるTyler第10代大統領の国書を持って、浦賀に来航した。幕府が長崎に回航するように伝えたところ、ビッドルは交渉を中止した。

アメリカ第10代大統領John Tyler(1841年[US065]4月4日〜1845年[US069]3月4日)は日本に開国を迫る大使を派遣することを決めました。この大使が体調不良であったため、1846年[US070]7月19日ビッドルが浦賀に来航したそうです。

幕府の事実上の拒絶に対して、ビッドルがおとなしく帰っているのは、この時のJohn Tyler大統領の対日本外交方針が相対的に「ソフト路線」だったからだそうです。しかし、この交渉の「失敗」が1853年[US077]、54年[US078]のペリー来航で砲艦外交として「活かされる」ことになります。

ところで、ビッドルの来航は同年のオランダ風説書によって幕府に知らされていたそうです!江戸幕府は長崎において一応の情報収集はしていたのです。オランダ風説書とは、1641年[bUS135]より幕府がオランダ船の入港のたびに情報提供を要求していたものです。ちなみに、オランダはアヘン戦争を契機として、1940年[US064]から別段風説書を幕府に提供し始めていました。


そもそも、イギリスがアヘン戦争(First Opium War、1839年[US063]9月4日〜1842年[US066]8月29日)に勝って清と不平等条約(虎門寨追加条約(Treaty of Nanking、1842年[US066]8月29日))を締結したのに便乗して、アメリカも不平等条約(望厦条約(Treaty of Wanghia、1844年[US068]7月3日))を締結しました。

虎門寨追加条約の概要:
清は広州、福州、廈門、寧波、上海の5港を開港させられた上、関税自主権を喪失、治外法権を認め、最恵国待遇を与えた。

さらに、アメリカは戦争に勝ったわけでもないというか戦争すらしていないのに、同じ内容の不平等条約を日本と締結しようとしたのです。図々しい、ですね。しかし、国際外交の基本スタンスは「図々しい」方が良いとも言えます。「図々しい」主張をしない国は、「なにか隠しているのでは?」「裏で裏切ろうとしているのでは?」と詮索されるだけだからです。

さて、アメリカによる日本に対する開国要求については、地政学(というか国際外交)上のポイントは4つあるとわたしは思います。

  1. アメリカの(結局は後に日本と不平等条約を締結する全ての欧米列強の)基本スタンスは、イギリスがアヘン戦争に勝利して締結した虎門寨追加条約の考え方に基づくということ。つまり、決して「開国した方がいいよ」というスタンスではなく、「不平等条約を結んでやろう」というスタンスだということです
  2. アメリカがチャイナのついでに日本に「開国」を迫っている様に、国際外交の原則は「まず押してみる」だということ。そして、相手が引いたら「さらに押してみる」ということ。ビッドル来航(1846年[US070]7月19日)だって、事実上拒否した(つまり「押し返した」)からビッドルは帰りました
  3. 19世紀半ばのこの時点での欧米列強の日本の日本に対する扱いは、完全に他の有色人種国家(つまり欧米列強の観点からすると植民地予備軍)と同じ扱いだったということ。19世紀末以降で日本が有色人種国家として初の列強となったことは、世界史上の重大事件であり、恐らく19世紀半ばの時点では誰も予想できなかったことなのではないでしょうか?
  4. そして、2020年現在アメリカで人種間対立が激化していますが、そもそも日本という国がなければ「人種間の平等」という概念が誕生し得なかった可能性があるのです。つまり、日本が近代国家へと変貌し、列強の一員となり、アメリカに敗戦する過程で有色人種国家が次々と欧米列強からの独立を勝ちとったという歴史があって初めて「白人>有色人種」という17世紀から20世紀前半までの常識が揺らいだのです。日本こそが「人種間の平等」という世界中で認められる基本的人権の事実上の生みの親だと言うことです。

「日本の開国」について考える際には、常にアヘン戦争と結びつけ、そのスタート地点に立った上で、日本の19世紀後半・20世紀の歴史を学ぶ必要があります。

わたしが小学校・中学校の頃は、「戦前の日本は酷かった。戦後の日本は素晴らしい。」と習った様に記憶しています。しかし、最近のチャイナの全世界に対する態度や戦後ずっと続くコリアの「反日」の態度を見る限り「戦後の日本は外交上は酷いこと続きだった」という共通認識がようやく形成されつつある様に思います。実際、近現代史を少しでも知れば、どう控えめに表現しても「戦前の日本外交はよくやった。戦争に負けたのは残念だけれども、それにしても戦後の日本外交は情けない。」という結論に至ると、わたしは思います。


アメリカ第10代大統領John Tyler(1841年[US065]4月4日〜1845年[US069]3月4日)は前任者の死によって就任した最初の大統領です。清とは望厦条約(1844年[US068]7月3日)を締結し、日本にはビッドルを派遣しました。テキサス併合(1845年[US069]12月29日)に功績。

文責:四々縦七

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