1899.02.04−1902.07.01 米比戦争/フィリピン植民地化

1899年[US122]2月4日、米比戦争が勃発。アメリカが勝利し、フィリピンを植民地とした。

最初にクールにザックリまとめてみました。

米西戦争(1898年[US122]4月25日〜8月12日停戦)のさなか、1898年[US122]6月12日にEmilio Aguinaldo y Famyら独立革命軍がフィリピン第一共和国(1899年[US123]1月23日〜1901年[US125]3月23日)の独立を宣言しました。6月23日にはEmilio Aguinaldoを首班とする革命政権が政権を奪っています。

こうして、フィリピンはスペインからの独立を果たしたのです。

ところが、アメリカは米西戦争の和平条約としてパリ条約(1898年[US122]12月10日)を締結し、フィリピン人との約束を破って2,000万ドルでスペインからフィリピンを購入してしまいました。

これに対し、1899年[US123]1月1日にフィリピン議会はEmilio Aguinaldoを大統領に選出し、Emilio Aguinaldoは1月23日に初代大統領に就任しました。アメリカとフィリピン第一共和国の間の緊張は高まり、1899年[US123]2月4日に米比戦争が勃発してしまいます。

1902年[US126]7月1日にPhilippine Organic Actが締結され、アメリカが勝利し、フィリピン第一共和国は崩壊、フィリピンはアメリカの植民地となってしまいました。

つまり、アメリカの本土からもスペインの本土からも遠く離れたフィリピンにおいて、フィリピンの独立革命軍の助力を得てアメリカは米西戦争(1898年[US122]4月25日〜8月12日停戦)に勝利しました。その上で、戦後にフィリピンをスペインから購入し、フィリピンと戦争をして(米比戦争(1899年[US122]2月4日〜1902年[US126]7月1日))、植民地化したわけです。完全な裏切り行為です。

現代においてもアメリカとフィリピンの関係が「シンプルな軍事同盟国」とならず、すったもんだしている(1990年代初めに米軍が撤退、米比共同軍事演習も1995年に取り止めとなりましたが、1998年に「訪問米軍に関する地位協定」が締結され、1999年に共同軍事演習を再開しました。ところが、2020年2月11日にフィリピンが「訪問米軍に関する地位協定」の破棄を通告し、7月現在、180日間の失効猶予期間にある…)遠因にこの歴史があることは覚えておかないといけません。

ただ、残念ながら、当時においてこの様なアメリカの振る舞いは「欧米列強が有色人種国家に対してよくやること」でした。ウェストファリア条約の精神は有色人種国家に対して適用されることはなかったのです。

そして、明治日本が恐れていたのは、まさにこの様な事態でした。つまり、「ロシアを(かぎりなく)独力で打ち倒さなければならない」という課題を背負っていたわけです。

文責:四々縦七

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